加賀れんこんの歴史
金沢城
加賀れんこんのルーツはおよそ300年余り昔
に遡ります。石川県金沢市は「加賀百万石の城
下町」として有名な観光都市です。
この「加賀百万石」とは加賀藩主前田利家が金沢城を築き、100万石の大名で
あったことから金沢の代名詞として冠する言葉です。
その後の五代藩主前田綱紀が参勤交代の折に関東又は愛知から蓮の種か苗を
持ち帰って、金沢城付近に植えたのが始まりと言われています。
日本三名園のひとつ「兼六園」は五代藩主前田綱紀が造園し始めた公共事業
であったそうです。
造園当初は兼六園は「蓮池庭(れんちてい)」と呼ばれていました。
現在も兼六園の石川門側に面したところに「蓮池門跡」があり、蓮池庭の面影を
現在にも伝えています。「蓮池庭」は1822(文政五)年に兼六園と名がつけられ
その時に蓮池門が建てられ、1874(明治七)年に兼六園が市民に開放され、蓮
池門は取り払われたそうです。
蓮池門跡
「加賀蓮根」――石川県蔬菜栽培前史―― 田中芳男 著 によれば加賀れんこんの
ルーツは以下の様であったそうです。
・ 加賀れんこんのルーツ
藩政時代は米以外の作物を栽培する事は禁止されていたのですが、日当たりが
悪く米の作れない所だけは蓮根の栽培を許されていたそうです。現在も町名とし
て残っている大樋町(おおひまち)が加賀れんこんの栽培地のルーツです。
大樋町から次第に隣接する春日町、山上町、小坂町などへと蓮根栽培が広がっ
たようです。
大樋は北陸街道(現在の国道157号線)が城下町金沢へ入る北の玄関口でし
た。
ここに明治中ごろまで三角茶屋という有名な茶屋があったそうです。 この茶屋
で蓮の花や蓮飯は旅人の名物となり大樋蓮根(おおひれんこん)と呼ばれ有名
になったとのことです。
それまではれんこんを「はすの根」と呼んでいたそうですが、幕末の文久元年
(1861)「加越能名物産物番付」に、「金沢大樋蓮根」(かなざわおおひれ
んこん)と記載があり、初めて蓮根が商品として扱われるようになった様です。
明治初期の頃の蓮根は高価な蔬菜(そさい)とされ、お正月、冠婚葬祭など
に用いられる程度だった様です。明治20年代(1887〜)蓮根栽培を小坂地
区一帯に広めたのは本岡三千治と表与兵衛でした。本岡三千治は県会議員
でした。この人の孫の本岡太吉が明治42年に東京葛飾方面に栽培されてい
た「枯れ知らず」という品種を導入(これは昭和15年(1940)頃まで栽培され
た。)しました。
この新品種の導入とともに、収量増加と需要増大により蓮根が大衆化し出し
、「小坂蓮根」と改称されていきました。
明治44年を境にれんこんの生産量は急激に増大し、大正6,7年には全盛
期でした。
この「小坂蓮根」は更に全県的、全国的特産物として発展させたのは、本岡
太吉でした。
大正4年当時の販路は生産の半分は金沢以外の地区や県外でした。この
販路拡大のために加賀蓮根同業組合の設立とその指導、統制にあったの
が本岡太吉でした。
本岡太吉はわが国最大の消費市場である大阪・神戸および名古屋へ販路
拡大につとめました。こうして、関西市場への進出をきっかけに地方的な
「小坂蓮根」を改め、旧国名の加賀藩に因んで「加賀蓮根」と名付けま
した。
「加賀蓮根」――石川県蔬菜栽培前史―― 田中芳男 著
石川県図書館協会発行 昭和36年9月25日発行
小坂れんこん保存会 公式ホームページ |
http://www.kosakarenkon.com |